音相理論はことばの音が作るイメージ(表情)を数量的に捉え、それを元にネーミングやことばの分析評価を行う技術ですが、このような研究は世界的にまだどこでも行なわれておりません。
言語学の意味論の中で一部扱われてはいますが、抽象的な把握で終っているうえ、特徴的な一部の音だけが対象のため、現用されていることばのイメージの解明などはできません。
そのような理論がなぜ日本語において立論が可能になったのか。その理由として、私は次の3つをあげています。
(1)日本語が体系的な言語構造を持っているうえ、他言語の影響をほとんどうけていないかったこと。
日本語の祖語「やまとことば」(和語)は、統辞構造(ことばの順序)や文法、音韻など、言語の基本となる部分に外国語の影響をうけることなく、独自の表現法が高い純度で受け継がれてきました。
その後の日本語は漢語、ひらがな、カタカナ語が混在し、外国語の影響を大きく受けているように見えますが、外国語が多数移入されても「名詞」の数が増えただけで、言語の基本部分への影響はほとんどないのです。
たとえば「Beautiful」という形容詞が入ってきても、日本人は「ビ
ューティフル」のあとに「な、だ、で、に、なら」の定型の活用語尾をつけ、原語「Beautiful」は形容動詞の語幹、すなわち「名詞」としてしか使われておりません。漢語の場合も、「優美」という語はその後に「だろ、だっ、で、に、な、なら」の定形の活用をつけて形容動詞化し、「優美」は形容動詞の語幹、すなわち名詞としてしか機能させていないのです。
すなわち、日本語で「外来語が増える」という現象は、新たな語彙(単語)
が増え、日本語の表現がより豊かになったというプラスはあっても、言語の基本体系を乱すものではないのです。
(2)日本語が開音節語であったこと
「音相論」という理論の体系化が日本語で初めて可能になった次の理由として、日本語が開音節語であったことがあげられます。
開音節語とは拍(音節)の終わりに母音が伴う言語のことで、日本語以外にもイタリー語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ポリネシア語などがありますが、日本語はその中でも完全形に近い開音節語といわれています。
日本語は「拍」の意識が明白なため、拍を単位とする表情「逆接拍、順接拍、無声化母音、濁音、促音、勁輝拍・・・」などが捉えやすくなり、語や文の音相把握が容易になります。
その反対の、子音どまりの音節が多い閉音節の言語(ドイツ語、ロシア語、英語など)では、音節の区切りが不明瞭なため、音相を捉える対象が無数に近い数になります。
(3)日本語の音節(拍)の数が、音相を捉える上で適宜な多さであったこと。
日本語で音相の把握を容易にした今1つの理由に、表情を捉える単位となる拍(音節)の数が合計138拍という極めて手ごろな数であったことがあげられます。
ちなみに、英語の音節数は区分法の違いによって、学者により「1,800」、「3,000以上」、「10,000以上」などとまちまちですが、表情を作る音の単位が1,800以上にもなると、脳内のイメージ識別機能が限界を越え、音節単位のイメージ(表情)把握は不可能となります。
日本語はあらゆる音声を138という手頃な数で把握できることが、音相論の成立を可能にした大きな理由だったといえるのです。