6月の記事一覧
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6月の記事
春の海 ひねもすのたり のたりかな
春なれや 名もなき山の 薄霞
どちらも春を詠んだ与謝蕪村の著名な句ですが、けだるくのどかな春のただずまいが、春らしい「音」を使って見事に表現されているのがわかります。
春の感じをことばの音で表すには、響の強い破裂音(パ、タ、カ行音)系の音をなるべく使わず、のどかさや暖かさを作る摩擦音(サ、ハ、ヤ、ワ行音)や鼻音(マ、ナ行音)、流音(ラ行音)(濁音と拗音を含む)を多く使うことによって生まれます。
両句の場合、これらの音がどれほど使われているかを見てみましょう。
「春の海」・・・は、る、の、み、ひ、ね、も、す、の、り、の、り、な
(17音中13)
「春なれや」・・・は、る、な、れ、や、な、も、な、や、ま、の、す、す、み
(17音中14)
どちらも、音相論を意識して詠んだと思われるほど、これらの音が多く使われているのがわかります。
ある雰囲気を表現したいとき、このような音が作るイメージへの配慮を忘れてはならないのです。
これは文章や詩やネーミングや普段の会話などにも通じる、ことばの裏にある隠し味なのです。
ことばの音を大きく分けると、無声音と有声音になります。
無声音とは声帯を振動させずにだすパ・タ・カ・サ・ハ行音をいい、「現代的、 健康的、軽快感、明るさ、スピード感、爽やかさ」などの表情をつくるため「ペプシコーラ、カルピス、コカコーラ、カプセルホテル、ポルシェ、ポカリスウ エット」のような語の中で多く使われています。
また、有声音とは声帯を振動させてだす無声音以外のすべての音をいい、無声音とは反対の「優雅、 落ち着き、穏やか、豪華、奥行き感、暖かさ」などの表情を作ります。そのため、「ダイヤモンド、エレガント、ジョニーウオーカー、メロン、サントリー・ オールド、ロマン」などの語に多く使われます。
日本語にはアイウエオ、カキクケコなど138個の音節(拍)がありますが、日本語の中で使われている音節(拍)の40数%は響きの明るい無声音で、残りの50数%が暗さやマイナス方向のイメージを作る有声音でできています。
日本語が外国語に比べ派手さがなく落ち着いたことばだと言われているのは、使われる子音に有声音が多いことと、1つ1つの音節の終わりに有声音である母音がくるため、有声音の使用が目立って多いからなのです。
ことばの音がもっているイ具体的なメージや表情についての研究は、言語関
係の学問ではどこでも行われていないため、イメージのことになると実用面でことばと取り組んでいる作家や評論家の論評などにも、抽象的で隔靴掻痒のものや、見当外れなものに遭遇することが少なくありません。
ある新聞の俳句欄で、
まじり合ひて 濁らぬ泡や 冬泉
とうい投稿句がありました。これに対して高名な俳句作家が次のように論評していました。
「前半にある濁音が、この句から清澄な印象を奪ってしまった」と。
確かにこの句は、表現しようとしている意図とは裏腹に、清澄感の表現に欠けていることは指摘されたとおりですが、その原因は「全半にある濁音」(じ)だけのあるのでなく、それ以外の原因となるものが多く見落とされているのです。
「清澄感」を作るには、
1、濁音を少なくする。
2、有声音を少なくする。
3、無声摩擦音を多く使う。
4、「イ列音」を多く使う。
が 必要ですが、この句が満たしているのは4、の「イ列音」が多い(注、18音中6音)だけで、濁音は前半の1音(じ)のほか「ご、ず」の3音あることが大き な原因ですし、少なかるべき有声音はこの句では「て」以外の17音(94%)と異常に多いこと、また無声摩擦音は、「冬」の「ふ」ただ一音しかないことな ど清澄感を作る大事なものが見落とされていることの指摘がないことです。
このように専門家の論評でも、ことばのイメージのことになると、客観的裏づけのない個人の主観によって論じているものがたいへん多いのです。
「桃色」と「ピンク」は意味のうえでは同じですが、「ももいろ」という音には穏やかな落ち着いたイメージがあり、「ピンク」には明るく可愛らしさのようなものを感じます。
だから、赤ちゃんの頬は「ももいろ」というより「ピンク」という方が実感がよく伝わるし、老婆の頬は「ももいろ」という方が、より印象深く伝わるのです。
「あか(赤)」という音には明るい音があり、「くろ(黒)」には暗く沈んだ音があり、「甘いと辛い」、「強いと弱い」、「明るいと暗い」など反対の意味をもつ語は、それぞれが相応しい表情を持っているのがわかります。
このように私たちは、日常意思や感情を誤りなく伝えるためも、無意識的にことばの音に神経を使っているのですが、このようなことばが伝える表情はほとんど「音」によって行われるので、これを「音相」と呼んでいます。
音相は、遠い「やまとことば」の時代から先祖代々受け継がれてきたもので、平均的な日本人が共通的に持っている感性といってよいものです。
ネーミングにとって、意味や文字の大事さはいうまでもありませんが、大衆の音響感覚が高度に発達した今日では、「音が作るイメージ」の良さを加えなければ人々に愛される、効果のあがるネーミングにはならないのです。
意味的な配慮や工夫は1年もたてば忘れられますが、音が作るイメージは永遠的なものとなって残るのです
ことばがもつ微妙なイメージの違いを高いレベルで感じることのできる感性をもっている今の大衆は、意味や文字より、音が作る「イメージの良さ」でネーミングの良否は決めているのです。
送り手は意味で送り、受け手はそれを音で評価する・・・このすれ違いがヒット・ネーミングが生まれにくい大きな原因となっているのです。
にもかわらず、ネーミングの制作現場でなぜ、「音」の検討が行われないのでしょうか。
それはことばのイメージには感覚的要素が多いため、これを解明するには音相論を学ばなければならないからで、その煩雑さをさけるため、作業がしやすい昔ながらの意味中心の方法が続いているのです。
一と夏だけ売れば良いような短期的な商品なら、意味やデザインやキャラクターなどで人々の目をパッと捉えて一応の効果をあげることもできますが、長期にわたってシンボルとなる社名やブランド名などには、ことばの中から滲み出てくるものがそこになければならないのです。
Q.
表情語の中に「つらい、苦しい、汚い、悲しい」などネガティヴな意味をもつことばがないのはなぜですか。(奈良市MAT)
A.
ことばが作るイメージ(表情)には、「明るい、嬉しい、華やか」などポジティヴ(肯定またはプラス)な方向をもつものと、「くらい、悲しい、嫌い」などネ ガティヴ(否定またはマイナス)な方向のものがありますが、音相論では次の理由で、表情語はポジティヴなことばだけで表すことにしています。
1、 ポジティヴ語とネガティヴ語はどちらにでも使われることが多いため、画一的な区分がしにくいものが多いこと。
2、 1語の中に明白にネガティヴな意味を持つ表情語が入ると、ネガティヴ語がもつ刺戟の強さから、ことば全体のイメージ把握にゆがみが生じる恐れがあること。
たとえば人の名前を分析した表情語の中に「暗い」という1語があると、性格の暗さを指摘された本人のショックはことのほか大きいはずで、そのことにひきづられて、全体的なイメージ把握に狂いが生じる恐れがあるからです。
このような傾向はネーミングや普通の会話の中でもよく見られる現象です。
なお、ネガティブな意味をもつ「ダサイ」「ずるい」「汚い」などの語を分析するには、表情解析欄の低ポイント語を見ることで「優雅さがない」「清潔感がな い」「爽やかさがない」のような裏側から読むと捉えられますし、それに小著「日本語の音相」18〜119ページ、表21「表情語と表情属性欄」のネガティ ヴ語欄を併用すればさらに明白な表情が得られます。(木通)
われわれは、これらのことばを無意識のうちに区別しながら使っています。
新聞が情報メディアとしての機能をもっているときは「シンブンシ」、
(例)「シンブンシ上で活躍する」、「シンブンシ面で拝見した」「シンブンシを切り抜く」
そして新聞がその機能を失った後は「シンブンガミ」となる。
(例)シンブンガミで包んでくれた」、「シンブンガミで床を拭く」
このようなイメージは、「シ」と「ガミ」という音の違いから生まれるのですが、その根拠を明らかにしてみようと、音相分析を行いました。
「シ」・・・この音は 無声音(声帯を振動させずに出す音)
摩擦音(息を口内に摩擦させて出す音)
拗音※(2つの子音を持った音)
の組み合わせでできているため甲類表情表12項から「爽やか、清らか、清潔感」を感じる音であることがわかります。
「ガミ」・・「ガ」も「ミ」も有声音であるため穏やかな響を伝えますが、「ガ」が濁音のため甲類表情表20項の「暗く、重たく、沈んだ音」が加わって、生命感や活力感を持たないないことばであることがわかります。
日本人は誰もが無意識のうちにこのような「ことば感覚」をもっていますが、それを科学的な根拠によって証明したのが音相理論です。
※「シ」は音相論では拗音として扱われます。
サ行は、sa,si(スイ),su,se.soが正しいs行の発音ですが、
日本語の「シ(shi )」は2つの子音(s.h)を持っているので、
拗音と認識しています。
例え話をしてみましょう。
南の島から、見たこともない果物が届いたとします。
人々が集まってその名付けを考えます。
ある人は、色から、ある人は形から、またある人は香りや手触りから、また神話にでてくる果物から思いめぐらせる人もいるでしょう。
このように、ネーミングを考えるには無数といえる切り口がありますが、このような心的、内面的な営みは、人の直感力や経験や空想する能力から生まれるもので、それは人でしかできない仕事です。
過去に、コンピューターでネーミングを作りだそうとした人がいましたが、コンピューターから、たった4音節のことばを取り出すにも、日本語には138の音 節(拍)がありますから単純に計算しても138の4乗=3億6千万語がコンピューターから出てきます。そこからことばとして使えそうな語を選ぶのは人の手 仕事となりますが、1人で毎日1000語づつ行っても、辛く計算しても1000年はかかってしまうのです。
話しをするロボットの研究が今いろいろ行われていますが、一番困難と思えるのは「ことばが創作できるロボット」ではないかと私は思うのです。
ことばは時代とともに変わります。
新しい語が生まれたり大はやりをしたり、あっという間に消ていったり・・・だが、このようにことばを拾い上げてはやらせたり捨てたりする選択は、誰が、どんな意思によって行っているのでしょうか。
それは、文芸作家やコピーライターなど、ことばに対し特殊な感覚をもつ「専門家」たちが行うのではなく、日常の暮らしの中でことばの微妙なイメージの存在を実感し、その効用を無意識に活用しながら言語生活を送っている普通の人々の感性の総和が行っているのです。
したがって、ことばの一種であるネーミングの良し悪しや好き嫌いの評価なども、大衆の誰もが持っている平均的な感性によって決められているのです。
このことをいま少し具体的に見てみましょう。
「桜」ということばを聞くと、誰もが暖かい薄紅色の花びらを思い、野山を彩るあで姿を思い、花吹雪の風情などを思いますが、誰もが持つそんなイメージとは 別に、天使の吐息をこの語に感じたり、地下に眠る屍(しかばね)を思うなど、その人が独自で感じるものも少なからずあるはずです。
「大衆の平均的感性」とは、人々がある語に対して感じるイメージから、一般性のない主観的なものを取り去って残ったもののことをいうのです。
ネーミング作りにとって何より大事なことは、平均的な大衆がそのネーミングをどんなイメージで聞くだろうかという視点を忘れてはならないのです。